私が敬愛大学に赴任したのは一九八七年四月でした。当時はまだ、千葉敬愛経済大学という名称で、長戸路千秋先生が学園長兼学長をされていました。赴任した年は研究室が不足していて、以前からいる先生方も二人で一室といった状況で、私は最初、共同研究室(現在の講師室に当たる)に荷物を置いて授業に出かけていました。非常勤講師と同じような状況でした。年度後半になって急造の研究室が設置され、私を含めて先生方全員がやっと一人一室の研究室を持つようになりましたが、私に割り当てられた部屋には欄間のような窓しか無く、外が全く見えず、研究室という雰囲気の部屋ではありませんでした。
教室は一号館の他に、十四番教室というのがあり、大教室でしたが、風の日は挨だらけになるし、雨の日は教室の入口まで傘を差して行くという大変な教室でした。また、一号館には短期大学も入っていました。その後、二号館ができたときには、やっと少し大学らしくなったと思ったものです。そして、研究室も二号館に移りました。現在は三号館も建設され、当時とは隔世の感があります。
私は二〇一四年三月に定年を迎え一旦退職しましたが、経済学部に新しく設置された経営学科の運営に尽力するようにと言われて、二年間特任教授として残りました。二〇一六年三月にその任期も切れて完全に退職します。思えばあっという間の二九年間でした。私には敬愛大学の雰囲気が合っていたのだと思います。当時から現在に至るまでの学生諸君や、先生方、事務局の方々と楽しくお付き合いできました。
青木ゼミ出身の人なら必ず思い出すのがゼミ合宿のようです。企業調査あるいは地域産業調査を学生諸君自身に企画・実施してもらいました。山中湖・河口湖・浜松市・東伊豆町・郡山市・四日市市・甲府市・勝浦市・鴨川市など随分色んな所へ出かけました。近年は調査ではなく、企業見学が主になり、行き先も名古屋市・岡山市・北九州市などになりました。
私は調査やその他の用事で色々な所に出かけます。そうした先で対応してくれた人から「私は敬愛大学出身です。先生の「産業立地論」を受講しました。」と言われたときは感激しました。また、ある企業の総務課の女性から「私は敬愛短大の出身です」と挨拶されたことや、千葉敬愛高校出身の東大大学院生から自己紹介されたこともあります。こういうときは、敬愛学園のアイデンティティーを感じました。